グラン・トリノ

Gran Torino

 

 

★アメリカ*ダブル・ニッケル・エンターテインメント/ガーバー・ピクチャーズ/マルバソ・プロ/メディア・マジック・エンターテインメント/ヴィレッジ・ロードショー・ピクチャーズ/ワーナー・ブラザース 2008年度作品

 

★スタッフ
監督■クリント・イーストウッド、製作総指揮■ブルース・バーマン/ジェネット・カーン/ティム・ムーア/アダム・リッチマン、製作■クリント・イーストウッド/ビル・ガーバー/ロバート・ロレンツ、脚本■ニック・シェンク、原案■デイヴ・ヨハンソン/ニック・シェンク、音楽■カイル・イーストウッド/マイケル・スティーヴンス、撮影監督■トム・スターン、編集■ジョエル・コックス/ゲーリー・ローチ

 

★キャスト
クリント・イーストウッド ウォルト・コワルスキー
クリストファー・カーレイ ヤノヴィッチ神父
ビー・ヴァン タオ・ヴァン・ロー
アーニー・ハー スー・ロー
ブライアン・ハリー ミッチ・コワルスキー
ジェラルディン・ヒューズ カレン・コワルスキー
ドリーマ・ウォーカー アシュレイ・コワルスキー
ブライアン・ホウ スティーヴ・コワルスキー
ジョン・キャロル・リンチ 床屋のマーティン
ウィリアム・ヒル ティム・ケネディ
ブルック・チア・タオ ヴー
チー・タオ 婆さま

 

★おはなし
 妻に先立たれ、家族からも疎外された老年の男が、ひょんな事から隣に住む東洋系の少年と親しくなり、少年に“大人の男としての生き方”を教授していく内に、彼自身の“人生の決断”を迫られる事件が勃発する…というおはなし。

 

★感想
 イーストウッドの新作。監督&主演兼任作としては『ミリオンダラー・ベイビー』以来4年ぶりとなりますな。これが最後の出演作だとか(イーストウッド曰く、これは単なるジョークだったとか。電話で知人に冗談で喋っていたのを、近くにいたジャーナリストが真に受けて記事にしてしまったと、先日ワタシ宛にメールを貰いました)、今までイーストウッドが映画で演じてきた主人公の集大成であるとか、“老後版”ダーティハリーであるとか、色々言われておりますが、ファン歴150年のワタシから見たら、そういう事は一切ありませんでしたな。確かに、ファンならニヤリとするシーンはあるにはありますが、恐らくイーストウッド自身はそういう事は全く意識していないと思われます。“その後のダーティハリーもの”という意味では、まだ『ザ・シークレット・サービス』や『ブラッド・ワーク』の方がそれらしい雰囲気はありましたしね。まぁ、引退した軍人という役柄からは、『ハートブレイク・リッジ』のトム・ハイウェイ軍曹の“その後”って感じもしますが。

 でも、そうは云いながらも、やはり何処かで観たイーストウッド映画というイメージが浮かぶのも事実で、強いて言うなら『ブロンコ・ビリー』が一番近い線ですかね。この映画と『ブロンコ・ビリー』の何処が似てるねん! というお方は、イーストウッド映画をデビュー作の『半魚人の逆襲』から全作を5回ずつ観直すべきでしょうな。そう、この映画は『ブロンコ・ビリー』と同じ構造を持った映画であるからなのです。

 『ブロンコ・ビリー』でワタシが一番印象に残っているシーンといえば、後半辺りでしょうか、一座の仲間であった若者が実はベトナム戦争の脱走兵だった事が分かり、その為にムショに入れられてしまうという件。元はといえば酒場での喧嘩が原因だった訳ですが、その事実が発覚した為、単なる喧嘩による拘留だけでは済まなくなってしまうというシーンですな。で、何とか仲間を救出したいと思ったビリー(イーストウッド)は、地元の保安官に懇願して釈放して貰おうとする訳ですが、その時、保安官からある条件を提示されるんですな。それは「オレとオマエのどっちが早撃ちか勝負をつけよう」というもので、ビリーはその決闘に渋々応じるんですな。で、保安官から「早く抜け!」と言われるものの、実際に撃つ事はままならない為、「何だ。抜けないのか、この腰抜けめ。どこが全米一の早撃ちじゃ。この低能のインポ野郎が!」と罵声を浴びせられ、一生懸命その屈辱に耐えるイーストウッドが印象的だったんですな。

 実際に撃ち合った場合、ビリーの方が早撃ちで勝負に勝てるのは目に見えてる訳ですが、これは映画でもなければ、ショーでもない、いわば本物の殺し合いになる訳で、勝負に勝とうが負けようが、ビリーが銃を抜いた瞬間、ビリーが犯罪者になってしまうのが当然で、それを考慮した為のあの屈辱になってしまったんですな。そもそも、ワイルド・ウェスト・ショーの一座を構えているビリーにとって、今自分がムショ送りになってしまう訳にはいかず、一座のメンバーの未来や自分の将来の事を思うと、とてもじゃないけど、こんな遊びに付き合ってはいられないというビリーの判断だった訳ですな。今は、若者を救う為だけに全力投球しようという考えだった訳で、だからあの屈辱に耐える事が出来た訳です。

 さて、そこで今回の『グラン・トリノ』ですが、ここでも主人公の老人は、心が通った若者の将来の為に勝負に出る事を決めるんですが、今回は事情がちょっと違っているんですな。つまり、主人公の置かれた立場が。『ブロンコ・ビリー』では、まだ自分にも将来の夢や希望があり、仲間に対する使命感みたいなものもあった訳ですが、このコワルスキーには、そういったものがほとんどない状態というか、家族はみんな離れてしまっているし(子供たちには冷たい態度をとっていたけど、あれはもう完全に自分の手を離れて自立しているので、ある意味安心感みたいなものが芽生えている証拠であると言えますな)、最愛の妻には先立たれたし、命を賭けるような仕事もしてないし、生き甲斐というのも今は無くなってしまったし、楽しみはといえば、毎日庭の芝生を刈って、ビールを飲みながら庭でくつろぐだけ。あと、愛車の骨董品とも云えるグラン・トリノを手入れするのが唯一の趣味というか、それが自慢でもある訳ですな。そんな、いわば、後はゆっくり死を待つだけの状態であった彼にとって、ひょんな事から付き合うようになってしまった隣の若者との交流が、それまで閉じきっていたコワルスキーの心を開かせ、“最後の決断”へと導かせた訳だと思うのですな。

 『ブロンコ・ビリー』のビリーと違い、全てを無にしても悔いなくやり遂げる必要があるコワルスキーが、この映画で最後に取った行動は、まさに“男のけじめ”。これだと思いますな。あの場合、この主人公が取った方法が最良の方法であるといえ、人生を達観した者だけが為し得るその“けじめ”こそ、この映画最大のテーマでもあり、また、これは恐らくは、素のイーストウッド自身が、実際に思い悩んでいる姿を具像化したものだったのではないだろうか、と思ってしまうんですな。

 つまり、イーストウッドも人間である。いつかは自分も、遅かれ早かれ退く時期が来る。それがいつなのか、突発的に来るのか、或いは計画的に来るのかは分かりませんが、人間である以上、それは避けられない事。その時にどういうけじめをつけるか。どのようにして後継者に引導を渡すか。それについてイーストウッド自信が、現在思い悩んでいる事がこの映画に表れているような気がするんですな。なのでこの映画は、過去のイーストウッド映画の集大成ではなく、未来のイーストウッドの姿を描いた映画だと云える訳ですな。

 ラスト、バックにイーストウッド自身の歌声を響かせながら、人生の先輩からの贈り物=グラン・トリノに乗って走る若者の姿を何処までも追いかけるショットは、『サンダーボルト』や『センチメンタル・アドベンチャー』『マディソン郡の橋』のラストを想起させ、最近にない余韻を持って幕を閉じる(最近のシネコンは幕が開閉しませんが…)。最高ですな。こんな傑作を何気に撮ってしまうイーストウッドは、まさに現代最高の映画作家と言っても過言ではないだろうし、また、こんな傑作に今出会えたという事も、この映画を観た人の人生にとっても最高の瞬間であろうと思われますな。そして、このコワルスキーのような“けじめ”をつけて人生を終わらせる事が出来たら、その人生も最高という事になりますな。映画は最高、イーストウッドも最高、そして人生も最高。こういう人生を歩みたいものですな。

 

★ひとこと
   今世紀に入って監督オンリー作が増えてきたイーストウッドですが、もしかすると「主演するのはこれが最後になるかも知れない」と公言したとかしないとかで話題になった映画でもあり、今後の予定作を見ても、確かにそのムードは濃厚のようで、ファンとしては何とも寂しい事ではありますが、映画公開後にイーストウッド自身が「アレは単なるジョーク」と言ったという事も伝わって来たりもしていて、今の所は何とも言えない状況ではありますな。まぁそうやって、ファンを安心させようとしているだけかも知れませんが、今後の彼の年齢こ事を考えると、確かに、演じる役は限られてくる訳で、当たらずも遠からずというのが正解でしょうか。

 確かにそういう目で見れば、この映画のラスト・シーンがその事を暗示させたりもしている訳で、そう思うとこの映画が重要な作品にも見えてきますな。ま、いずれにしても、イーストウッドの勇姿を瞼に焼き付けておく為にも、何度もこの映画を見返す必要があると思われるので、ソフト化された折には、絶対にゲットするようにして下さいませ。

 

★データ
テクニカラー/パナヴィジョン(アナモ)/スコープ・サイズ/ドルビー/dts/SDDS/116分

日本公開:2009年4月25日(ワーナー配給)

アメリカ公開:2009年1月9日(WB配給)

 

           

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